http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/toyama/news/20070911ddlk16040036000c.html

大平山濤さん死去:回復への願い、むなしく 県内の書壇に新風 /富山
 ◇教え子たち100人、永遠の別れに涙


 書に生涯をささげ、“書道王国”富山県の礎を築いた文化功労者で毎日書道会最高顧問の大平山濤(さんとう)さん(91)が9日、静かに逝った。自らが代表を務める書道団体「抱山社」で、今年の毎日書道展の出品作を決定するため4月29日に富山県魚津市を訪れた後に、体調の不調を訴えて入院。関係者が回復を願ったものの、届かなかった。【青山郁子】

 大平さんは1916年6月、朝日町に生まれた。15歳で県師範学校に入学し、17歳で文検を目指して書の独学を始めた。転機となったのは、戦後間もない1947年に富山市で開催された書道講習会。講師として訪れたのは近代詩文書の提唱者、故・金子鴎亭氏。俳句や短歌などを漢字、仮名交じりで表現するという書の新しい分野と、金子氏の熱い指導に心酔した大平さん。立山など古里の自然を、厳しい線と力強い墨痕で書き上げる作品を次々と発表し、県内の書壇に新風を吹き込んだ。

 その後、県立魚津高など県内の高校で長く書道を指導する一方で、何度も金子氏を招き、書の普及、拡大に尽力。その教え子らが中心となり作るのが抱山社で、現在は会員約100人を数える。51年には県書道連盟を結成して委員長を2回務めた。

 そして68年、52歳で教職を離れて上京し、書に専念。その大らかで力強い作風にますます磨きがかかり、毎日書道展、日展などで華々しい活躍を続けた。米国、フランス、中国でも作品を発表するなど書の国際化にも力を尽くし、75歳で毎日書道展の第1回文部大臣賞、翌年に第33回毎日芸術賞を受賞。99年には朝日町の第1号名誉町民、02年には文化功労者に選ばれ、04年5月には同町に胸像も完成し6人の孫とともに喜んでいた。

 上京以後も、体調を崩すまで毎月富山を訪れて後進を指導。訃報が届いたのも、元気なら大平さんが来るはずだった魚津市内での抱山社の研究会の最中だった。集まっていた約100人の教え子たちは、偉大な師との永遠の別れに涙にくれた。

 90年に毎日書道展の巡回展として北陸展を創設し、その北陸展も今年18回目。今年の実行委員長を務めた愛弟子の新村暁峰さん(73)=魚津市住吉=は「最後まで『自分なりの思い切った作品を書くことが大切』と言っておられた。毎日書道展の北陸展で書のだいご味を紹介した意義は大きいし、本当は今年も来ていただきたかった。本当に残念で、心からご冥福を祈ります」と死を悼んだ。大平さんに60年間近く師事した北陸創玄書道会代表の経澤帰帆さん(74)=同市浜経田=は「がく然として言葉もない。時には厳しくたくましく育ててもらった。困った時には親身になって助けてくれ、しんの通った気骨のある人だった。大切な大黒柱をなくし、残念でならない」と話した。

 小学生時代から師事した抱山社富山支部長の江幡春濤さん(69)=同市浜経田=は8月25日に東京の病院に大平さんを見舞ったばかりで、「お元気で回復されると信じていた。今日の私があるのは先生のおかげで、今は親を失った気持ち。書家としても素晴らしい力を持っており、尊敬していた。これから後進の指導に力を入れて先生の恩に報いたい」と、涙ながらに語っていた。

 今年11月には富山県水墨美術館(富山市五福)で大がかりな回顧展も予定されていたが、追悼展(仮称)と変更されることになり、山下富雄館長(61)は「今年1月にお会いした時はお元気だったのに、大変驚いている。展覧会は心を込めて実施していきたい」と残念がっていた。

毎日新聞 2007年9月11日



子供の頃書道教室に通っておりまして、近代詩を中心に書いておりました。
教えて頂いた先生も無論、大平山濤先生の流れです。大先生である大平山濤先生のことは「さんとうさん」と親しみと敬意を持って呼ばせて頂いておりました。私など所詮、書道教室に通っていた子供の分際ですので、直接面識があった訳ではありませんが、やはり偉大な先生を亡くしたことに深い悲しみを覚えます。
謹んでご冥福をお祈りいたします。

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